Hokkaido Centennial Memorial Tower Fun

4 設計競技 公募 

 1327名の登録、299点の応募

 

■応募状況

北海道百年記念塔の設計コンペはそれ自体、日本建築史のエポックだった。『週刊建築ニュース 316号』(建築ジャーナル・昭和43年1月15日)は、このコンペの意義を次のように伝えている。
 

今回のコンペの特徴は、モニュマン・コンペとしては戦時中の忠霊塔コンペ(1940)、戦後に全国戦災都市空爆死亡者慰霊塔コンペ(姫路・1955)も行われたけれども、戦後最大の規模であったこと。高さ100mと総工費4.5億円などの条件で、造形的な自由なオープンコンペであったこともあって、昨年秋に決まった万博本部コンペを上回る力作が北海道を始めとして全国から集まった。[1]

 
北海道で始めて行われた建築コンペであったばかりではなく、日本全体を見ても日本建築史上最大のコンペであった。建築家の関心は高く、昭和42年7月10日期限までに登録を行ったものは1327名にのぼった。
 

10月31日までの作品提出期間に、寄せられた作品は299点だった。提出者の内訳は、東京都が146点、北海道33点、大阪府27点、神奈川県20点、愛知県14点、埼玉県13店、以下20県となっている。職業別では設計事務所勤務者が179人であり、ほか建設業者・大学勤務者、公務員などの応募があった。応募者の年令は最年少26歳から最高齢78歳だった。[2]

 

■審査員

これらを佐藤武夫氏が審査委員長を務める9名の審査員が審査に当たった。わかる限り審査員のプロフィールを紹介しよう。建築設計に関しては日本と北海道のトップ オブ トップが集った他、放送界からも日本と北海道のトップ オブ トップが参加している。
 

設計競技審査の模様①
左から横山尊雄・関文子・大野和雄・田上義也・高山英華・島本融・佐藤武夫・谷口吉郎

 

佐藤武夫(佐藤武夫設計事務所所長)

さとう たけお 1899(明治32)年~1972(昭和47)年
名古屋市出身。1922(大正11)年(大正13)早稲田大学理工学部建築学科卒業。ただちに早稲田大学に教鞭をとり、1937(昭和12)年から1951(昭和26)年まで教授。1930(昭和5)年より1948(昭和23)年まで日本女子大教授として建築計画、設計、建築音響学を担当。1957(昭和32)年より58年まで日本建築学会長。他に日本建築士会連合会、東京建築士会、日本音響学会、日本建築家協会各理事を歴任。
1969(昭和44)年建築美術工業協会の設立に尽力し、建築と美術、工業との協力関係の向上に貢献。1935「オーディトリアムの音響設計に関する研究」により工学博士を与えられた。建築作品には日比谷公会堂、早大大隈講堂、旭川市庁舎、ホテル・ニュージャパン、福岡県文化会館、水戸市庁舎、北海道開拓記念館等々で画家、彫刻家、工芸家との協力を積極的に実践してきた。その業績によって1967(昭和42)年日本芸術院賞を受賞。[3]

  

阿部 議夫(北海道文化放送社長)

 

大野 和男(北海道大学教授)

おおの・かずお 1909(明治42)年~1983(昭和58)年
日本の建築学者・教育者で北海道大学名誉教授。北海道大学建築学科の創設に尽力、教育者として貢献するとともに、十年にわたり工学部校舎全7万平方メートルを全面増改築の設計も担当。退官後は北海道建築センターの基盤を確立し、寒冷地建築の水準向上を図るとともに、道内の建築界を主導した。[4]

 

島本 融(北海道銀行会会長)

しまもと・とおる 1904(明治37)年~1976(昭和51)年
日本の大蔵官僚、銀行家。北海道銀行初代頭取のほか、公正取引委員会委員や日本銀行政策委員会委員等の要職を歴任。また公益財団法人札幌交響楽団の前身である札幌市民交響楽団の設立に尽力するなど北海道の芸術文化の向上にも貢献した。[5]

 

関 文子(北海道家庭裁判所調停委員)

 

高山 英華(東京大学教授)

たかやま・えいか 1910(明治43)年~1999(平成11)年
日本の都市計画家、建築家。東京大学工学部名誉教授。近代都市計画学の創始者。建築系の都市計画学者で、また都市工学の先駆者として都市再開発から広く地域開発、都市防災の推進等を通しまちづくり事業に貢献し、都市計画分野に大きな足跡を残す。工学博士。東京出身。[6]

 

谷口 吉郎(東京工業大大学名誉教授)

たにぐち・よしろう 1904(明治37)年~1979(昭和54)年
昭和期の建築家。石川県金沢市出身。東宮御所をはじめ東京国立博物館東洋館、東京国立近代美術館、迎賓館赤坂離宮和風別館、ホテルオークラ等現代日本の代表的な建物を設計した。また記念碑的なものも多く手がけ高村光太郎、森鴎外、志賀直哉ほか文学者の詩碑や文学碑も設計し、東京千鳥ヶ淵の戦没者墓苑等、墓碑類も多い。[7] 

 

田上 義也(田上建築政策事務所所長)

たのうえ・よしや 1899(明治32)年~1991(平成3)年
日本の建築家、音楽家。大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。[8]

 

前田 義徳(日本放送協会会長)

まえだ・よしのり 1906(明治39)年~1983(昭和58)年
日本の放送経営者、ジャーナリスト。第10代NHK会長。ワンマン会長として組織の拡大充実に努め、『NHK中興の祖』と仰がれた。退任後は財団法人国民政治協会会長、国語審議会会長、日本体操協会会長、国際政治協会会長、沖縄海洋博総プロデューサーなどを歴任。1976(昭和51)年勲一等瑞宝章、仏レジオンドヌール勲章、伊メリット勲章を受章。[9]

 

横山 尊雄(北海道大学教授)

よこやま・たかお 1907(明治40)年~1993(平成5)年
東京都出身。京都大工学部を卒業し、昭和8年に同学部講師、9年に同助教授。23年9月に北大工学部講師、同10月に同教授になった。45年に定年退官後、46年から道工大教授を務め、54年に退職。専門は建築計画学。51年に北海道文化賞を受賞。 [10]

 

■審査過程

トップオブトップの者達によって299の応募作に対する審査は、札幌と東京で4回計5日間にわたって徹底的な行われた。その様子を『設計競技審査結果報告資料』(昭和42年12月11日・北海道百年記念塔建設期成会)から紹介する。
 

 

第1回 6月6日 札幌市 募集要項を審議した。

 

第2回 8月9日 札幌市 質疑に対する回答を検討した。

 

第3回 11月10日・11日 札幌市
11日までに到着した266点について審査した。審査の方法は各審査員が優秀と認める作品をできるだけ多く選び、たとえ選者が1名であっても、その作品は残すことにした。この方法による審査を第2次まで行った結果113点となった。第3次はこの113点を再審査して55点を選んだ。

 

第4回 11月27日・28日 札幌市
第1次 前回の審査会後到着した33点について前回の審査と全く同様の方法で審査した結果14点を選んだ。
第2次 前回選ばれた55点を加えた69点について各審査員が10点づつ選択した結果49点を選出した。
第3次 このうち得票2票以上のもの21点とさらに得票1票の作品から7点を再選出し、この合計28点を次回の審査対象とした。
第4次 28点について各審査員が4点ずつ選択した結果、2票以上のものを11点選んだ。
第5次 前回の得票2拍以上の作品11点について各審査員が2点ずつを選択した結果、2票以上のもの4点を選びこれをAクラスとした。
第6次 残りの24点について討議ののち、各審査員の推薦によりBクラス12点を選んだ。

 

第5回12月9日東京都
第1次 前回選出したA・B作品16点について各審査員の自由討議を行い、改めてAクラス候補作品を検討した結果、No7、No10、No32、No77、No113、No181、No287の7点を選んだ。
第2次 前期7点について最終審査の方針として、
 第1 建設の趣旨の精神性の捉え方
 第2 構造としての独創性と拡張の高さ
 第3 所与の条件(敷地等との関連、予算、構造、工事施工、その他)に対する適合などについて充分討議した結果、最優秀作品としてNo32を選定し、優秀作品としてNo7、No10、No181を選んだ。
第3次 上記4点を除いた12点については造形表現に優れたものおも考慮して次の6点を選んで準優秀作品に決定した。No61、No77、No155、No284、No287 [11]

 
なお前述の『週刊建築ニュース 316号』は次のように結んでいる。
 

昨年12月9日の最終審査後、日曜日を挟んで翌11日には審査経過が結果報告資料として発表されるなど、 コンペの手はずが京都国際会館コンペ(1961)以上に理想的に進められたことは注目される。近く公表される最高裁判所コンペにも、審査員と主催者の良き協力を得て立派なコンペの行われるよう望みたい。[12]

 
北海道百年記念塔は設計過程から日本を代表する建築物だった。
 
 

 


【引用参照出典】
 
[1][12]建築ジャーナル『週刊建築ニュース 316号』(1968/1/15)「北海道百年記念塔コンペ・結果」10-11p
[2]]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・145p
[3]東京文化財研究所>物故者記事>佐藤武夫https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9292.html
[4]https://ja.wikipedia.org/wiki/大野和男
[5]https://ja.wikipedia.org/wiki/島本 融
[6]https://ja.wikipedia.org/wiki/高山 英華
[7]東京文化財研究所>物故者記事>谷口吉郎https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9549.html
[8]ja.wikipedia.org/wiki/田上義也
[9]ja.wikipedia.org/wiki/前田 義徳
[10]北海道新聞夕刊 1993/01/23  
[11]北海道百年記念塔建設期成会『設計競技審査結果報告資料』1967)
①『北海道百年事業の記録』1969・北海道
②公益社団法人 日本建築家協会 北海道支部
旭川地区会公式サイト https://www.jia-asahikawa.com/about4
③『どんざ丸』北海道岩内町・木田金次郎美術館のスタッフブログ
http://donzamaru.blog121.fc2.com/blog-entry-190.html
④建築専門家のための情報サイト「コメット」COM-EThttps://www.com-et.com/jp/page/architect/067_matsunaga/02/
⑤東京工業大学公式サイトhttps://www.titech.ac.jp/public-relations/about/campus-maps/campus-highlights/cultural-properties
⑥WAA 早稲田建築アーカイブス http://waarchives.org/person/030/
⑦明るい社会づくり運動公式サイト https://www.meisha.jp/about/chairman
 

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